ジャッジしないとは、起こった出来事に対して、それが「良いこと」だとか「悪いこと」だとか決めつけないということ。
また、人をジャッジしないとは、「あいつはできる奴だ」とか「ダメな奴だ」とか決めつけないことです。
あなたは、知らず知らずのうちにこんなジャッジをしていませんか?
ジャッジすると苦しくなる
人を評価かして見てしまうと、実は自分が苦しくなるんですよ。
つまり、ジャッジするとは、「自分の意に沿わない行動をしている人間を人を思い通り動かしたい」という欲求の現れだと私は思うんですが、あなたはどう思います?
人間は非言語の関わり、つまり相手に対する態度が言葉よりも伝わってしまうものなので、そういう前提で関わると、相手も感じ取ってしまいます。
あなたは、自分を意のままに動かしたいという人の思い通りに行動したいですか?
私は真っ平ゴメンです。
私は他人の欲求を満たすために生きているわけじゃない。
人の欲求を満たすために生きたって、楽しい人生を送れないと思うから。
また、相手も同じ、これがアドラー心理学でいう「課題の分離」の考え方の1つです。
うつを患っているときに、この考え方に出会って、とっても心が楽になりました。
他人がどう行動するかは、そのが考えることであって、自分がそれを意のままにしようとするのは「他人の課題に土足で踏み込む」ことなのです。
「相手が部下であろうと、自分の子供であろうと」です。
リフレーミングする
NLP(神経言語プログラミング)では、「出来事はいつもフラット」で、それに「良いこと」と「悪いこと」のラベルを貼るのは自分自身だと考えます。
だから、考え方見方を変えることで、「良い」と思っていたものを「悪いこと」だと変えられるし、逆に「悪いこと」だと思っていたことも「良いこと」と看板を掛け替えることができます。
これをリフレーミングといって、例えば、
怒りっぽい人→情熱的な人と変えることによって、印象は正反対になります。
このどちらの面を見るかによって、相手に持つ印象も変わってきます。
だから、いくらでもフレームは交換することができるんです。
アドラー心理学では、「眼鏡を変える」っていうようです。
つまり、それまでピンク色のレンズをはめた眼鏡をかけているのを青色の眼鏡に変えてみる。
そうすれば、また違った世界が見えてきます。
いつもフラットでいる
じゃあ、もう一歩進んで、そもそもラベルを貼ることを辞めてしまえばいいんじゃないでしょうか?
出来事は出来事、自分の気持ちは気持ちと分離する。
人間関係のトラブルでは、仕事で何か上手く行かないことがあって上司に叱られたとしましょう。
ここであるのは、仕事で上手く行かなかったという事実と「上司が叱った」という出来事だけです。
これをどう捉えるかは、あなた次第。
仕事で上手く行かなかったのであれば、どうすれば上手く行くか考える。
そして、上司が叱ったという出来事を叱咤激励と捉えるか蔑(さげす)まされたと捉えるかはあなた次第です。
上司はあなたの将来を期待して叱ったのかもしれないし、単に虫の居所が悪かっただけかもしれない。
それは、解りません。
ひょっとしたら上司にも解らないかもしれません。
だったら、そんなことを気にせずに、あなたはあなたのできることをすればいいだけじゃないでしょうか?
同じように、人に対して何があっても「ジャッジ」せずにフラットに関わると、そんなに感情が揺さぶられることがないと思います。
まとめ
確かに、ある出来事に対して、反応してしまうことはあるでしょう。
それは仕方がないと思いますが、その後まで相手のことを恨んだり、嫌いになったり、あんな奴だと決めつけたりすると、自分がその感情をずっと心の中に抱えていかなくてはなりません。
それって、苦しくないですか?
え?どうやったら、そのように「ジャッジ」ぜずにいられるかって?
私の場合は、瞑想(マインドフルネス)をやり始めてから、できるようになりました。
一歩引いて、俯瞰して出来事を見てみる。
そんなことを習慣にしてください。
きっと、自分の人生を歩くことができるようになりますよ。
そうそう、『人を裁くことなかれ。しからば汝らも裁かれざらん』というイエスキリストの教えってこういうことじゃないのかな?ってふと思った。
もちろん、自分自身に対してもダメ出しせずに。
Written by メタル(@Metal_mac)
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